朝鮮の品々


 不思議と云おうか、奇蹟と云おうか、朝鮮の品々は、嘗ていやらしいもの

俗なもの、つまり醜いものが、殆どないのである。もとより出来栄えに多少

の上下はあろう。だが拙くとも、そのままで美しいのである。ここで醜いと

いう言葉を「罪深い」という言葉に置き代えると、尚はっきりしてくる。

「法華経」は「悉皆成仏」を説くが、夢とも思われるこの教えが、朝鮮の品

物で、事実となって示されているのである。罪深くて、地獄に落ちるものが

どこにも見えぬ。日本のように、美しいものと、醜いものとが、こきまぜて

ある国に比べると、驚歎すべき出来事だと云ってよい。何もかも救われた品

として、作られているということは、吾々から見ると摩訶不思議と云わざる

を得ぬ。併しそう見えるのは、吾々の立場からのことで、本来は明々白々の

理があっての筈である。朝鮮人としてみれば、日本人が何故そんなに沢山醜

いものを作るかが寧ろ不思議であろう。

 ではどうしてこんな奇蹟にも近いことが朝鮮で起きるのであろうか。全く

どんな国の歴史にも嘗てない出来事なのである。少なくとも文明国の間では、

特に日本のような国の品には、地獄に沈むものが余りにも目立っているのに、

朝鮮のものは殆どどれもこれも浄土の相を示しているのである。何がそうさ

せているのか。

 どうしても地獄に落ちないような仕組みが、働いているからと云ってよい。

だが朝鮮の個々の人間に皆力量が備わっているからではない。何か絶大な力

が他から彼等を支えていると見ねばなるまい。なぜなら工人達は、下賎の民

とそしられ、文字さえ読めぬ境遇に沈んでいたのである。まして何が美しい

かを識る術などはなかったのである。一つとして、在銘の品がないことは、

一面によくこの消息を物語っていよう。こんなことも他国では見られぬ。名

を誇ろうとする品々で、吾々はもううんざりさせられているほどである。だ

が朝鮮では「吾が名」に執著したものが見当らぬ。そんな心の葛藤とは縁な

くして、物を作って了う。仏法は「己を棄てろ」と教えるが、その教えを地

で現しているのが朝鮮の品物だとも云える。どれもこれも成仏しているのは、

そのためではないのか。

 或はこう考えてもよい。殆ど醜い品が見当たらぬということは、少なくと

も罪深いと思われるものを見かけぬのは、無謬の世界に入って仕事をするか

らだと考えてよい。吾々のはとかく誤謬の多い世界で仕事するので、それに

沈まずにすむ者が少ないのである。所が朝鮮では、どうころんでも、花の中

にいるような暮しぶり仕事ぶりなのである。ころんでもその場が花のうてな

ということになる。ではどうしてそんな「無謬」の境地に出られるのか。

 考えると吾々がとかくしくじるのは、美と醜とが分別された上での仕事だ

からであろう。そのために或ものは美しさを得ても、或ものは醜さに陥る。

これは美醜分別以後に仕事する者の避けられぬ命数だと云えよう。その上、

天才は少ないのが統計的な事実であるから、醜い品の率がずっと殖えるのは

必定である。だから多くの人間は、美醜相争う中に身を置いて、多くの苦悩

や悲哀を嘗めざるを得ぬ。これが日本などの現状である。

 所が朝鮮人はそんな道では仕事をせぬ。言いかえると、そんな不安な道を

歩いていないのである。つまり一々天才などを必要とする道で仕事をせぬ。

全く次元の違う安定な世界が仕事場である。つまり美醜が分別されている相

対の世界には係わりなく、そんな分別の未だ起こらぬ先に、仕事をして了う。

ここが一切の不思議の泉だと云ってよい。

 『般若心経』に「不垢不浄」という言葉がある。同じように『大無量壽経』

にも「無有好醜の願」というのがある。これらの句に仏法の主旨を込めてあ

るのだが、ざっと云って見れば次のようなことになろう。「不垢不浄」とい

うのは、「垢(よご)すこともせず、浄(きよ)めることもしない」という

ことである。垢したり浄めたりするのは二元の行いに過ぎぬ。だから塵を払

うという行いも亦一つの塵だと説いているのである。それは血で血を洗うよ

うな行為だとも教える。だから浄めるということ自身が一つの垢を置くこと

になる。それ故仏法では醜も醜だし、美も亦醜だと説くことを忘れぬ。だか

ら「不思善、不思悪」という言葉でも説く。「不垢不浄」はそこを見つめて

の教えである。

 さて「無有好醜の願」というのは「好醜の別あるなき浄土を求める願い」

との義である。「好」は「美」という語と置きかえてよい。つまり浄土の相

には醜もなく美も亦ない、そんな相対の性質に係わりはないと告げるのであ

る。だからこういう世界に在ると、醜いものなどあり得なくなる。又美に囚

われたものなどもなくなる。こうなると誤謬というものが存在しなくなるで

はないか。

 朝鮮の品々は、「美と醜とが共に有る無き」世界での仕事だと云える。本

来垢もないので浄めるという必要すら起こらぬ。そんな分別の入らぬままの

仕事なのである。だからやり損ないということがなくなる。悉皆成仏して了

う所以である。美醜の間の闘いがないから、いとも静かなのである。朝鮮の

品は饒舌である場合はない。いつも穏やかである。

 争いがあれば勝つもの負けるもの、悦ぶもの悲しむものが現れよう。朝鮮

の品には、「憂いも無く、また悦びもない」坦々たる様が現れているのであ

る。

 まづさ、うまさ等に関係がなくなるから、上手に作らねば美しくならぬと

いうような窮屈さはない。つまり醜にも美にも囚われていない。こうなると

無碍である。どうころんでも、ころんだままに、さしさわりがない。拙いま

まに美しいとか、不完全なままに完全さより更によいというような奇蹟が平

常底のことになって了う。朝鮮の品は決して力んだりして作られていない。

只作られているのである。禅ではこの境地を「しも」というが、朝鮮の品々

の美しさは「只の美しさ」なのである。狙った美しさなどではない。おのづ

からの美しさ、おのれなりの功徳というまでである。ここにこそ、汲んでも

汲みきれぬ美の泉があると云ってよい。例えば「井戸」の美というようなも

のは、そういう「只の美」なのである。だから普通にいう美の範疇には入ら

ぬ。もう一つ奥が深い。


                   (打ち込み人 K.TANT)

 【所載:『たくみ』 昭和29年11月号】
 (出典:新装・柳宗悦選集 第6巻『茶と美』春秋社 初版1972年)

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